今までにROC解析の実験を行われた方,または,これから行うかもしれないと思われる方で,これまでに,ROC解析の読影実験に参加してもらう“観察者の人権”を考えたことのある方がおられるでしょうか? 今回は,最近,アメリカで採用されつつある,この観察者の人権の保護について紹介したいと思います.ここで紹介することを“難しい”と感じられる方が,皆さんの中にはおられるかもしれませんが,非常に大切なことであり,今後,日本国内でもこういったことを考える必要が生じてくると思われますので,ぜひ,この機会にアメリカで行われていることの“事実”を認識していただきたいと思います.
まず,最初に“観察者の人権の保護”という概念が生まれた背景について説明したいと思います.現在,アメリカ国内の医療分野の研究に関わる大学や病院,研究機関の内部には,NIH(National Institutes of Health:日本の厚生労働省のようなもの)の指導により,Institutional Review Board (IRB)という委員会の設置が義務付けられています.IRBは簡単に言えば日本の大学における学内倫理委員会と同じような目的で設置されています.ただし,その機能や権限は日本とは比べものにならなくて,患者の人権保護やインフォームド・コンセントの実施,生命の倫理に関わる事項を厳しく管理し,必要に応じて教育を行います.IRBの影響力は非常に強く,大学や病院,研究機関の内部に設置されてはいるものの,それらに対して,NIHのポリシーを実行するための独立した権限を持っています.このようにIRBが権限をもつことの出来る理由は,IRBが本来の機能を果たさずに,NIHの指導が正しく行われなかったことが判明した場合には,その施設に対するNIHからの研究費の支給が全面的にストップされてしまうためです.実際に,そのようなことが今までにペンシルバニア大学,デューク大学,およびイリノイ大学といった一流大学で起こっています.アメリカ国内の大学や研究機関はNIHの研究費に依存している部分が多く,研究費の支給がストップされてしまうと,たちまち,経済的に窮地に陥るだけでなく,研究を継続することができなくなります.さらに,NIHへの研究費の申請には,その研究に対するIRBの承認が必須ですので,研究を健全に行うためには,研究者はIRBの権限を尊重し,それに従う必要がありますし,IRBの機能が正常に遂行されるためには,研究者は進んで協力する努力を惜しみません.また,NIHだけではなく,最近はRadiologyといった学会雑誌でも,その研究がIRBの承認を受けたことを論文中に明記することを,著者に対して義務付けていますので,必然的にIRBの存在価値は,さらに高くなりつつあります.
このように各施設にIRBを設置し,NIHの指導が徹底されるようになった背景には,患者の人権の保護(実験用動物の保護も含めて)が,医学の進歩と同じくらいに,重要視されるようになったことと,頻繁に繰り返される医療訴訟に対して,医療機関側が何らかの防衛手段を講じる必要があった,ということが挙げられます.そのため,患者のデータや身体の一部(レントゲン検査の結果,各種検査のデータ,血液,組織サンプル,etc.)を用いるすべての研究に対して,IRBの承認が義務付けられ,研究の結果や資料から特定の患者を同定することができないように,様々な措置が施されています.ここで,IRBがそういった人に関するすべての研究に対して承認を行う場合,IRBは研究者に対して概念(例えば,患者のデータと検査結果の関係は絶対に同定できないようにしなければいけない,といった概念)を示すだけで,その方法は,承認を申請する研究者が各自で考えなければいけません.当然ながら,研究者が示した方法がIRBによって適切と認められなければ,IRBの承認はおりませんし,その施設内で研究を進めることが出来なくなります.つまり,IRBはNIHのポリシーが実行されているかどうかを監視する非常に重要な役割を担っているのですが,結局は,研究者自身がNIHのポリシーを十分に理解し,そのポリシーにしたがって研究を行うためには,どのようにするべきかということを,日頃から真剣に考える必要がある,ということになります.この点が非常に合理的で,かつ効果的な政策(施策)であるように私には思われます.
アメリカ国内の医療関係の研究機関におけるIRBの役割と患者の人権保護との関係は,前述したように密接な関係にあることが理解いただけたと思います.そこで,ここからは今回の本題である観察者の人権の保護について述べます.最近になって,NIHは,アメリカ国内の研究機関に対して,ROC解析の様な観察者実験を行う場合には観察者の人権を保護する措置を施すように,といった勧告を行いました.その結果,多くの施設のIRBが,早速,観察者実験における観察者の人権の保護に取り組み始めました.具体的には,研究内容に観察者実験を含める研究者に対して,“観察者の人権の保護”を遂行するための方法を提示してください,という要求を行いました.“観察者の人権の保護”という概念が生じること自体,現在の日本国内では想像が出来ないことかもしれませんが,アメリカ国内では,それだけ観察者実験の結果が重要視され,研究の評価には観察者実験が欠かせない,という認識が強いことを如実に表しているように思われます.
ROC解析の観察者実験への参加を放射線科医や放射線技師の方にお願いした場合,あまり積極的には参加したくないと言われる場合があります.そして,それらの方々に,その理由を聞いたところ,忙しくて時間が取れない,といった理由以外に,観察者実験は自分の能力が試されるようで嫌だ,という意見を聞いたことがあります(ただし,これは日本での私の経験からです).また一方で,ROC解析においては,観察者の読影能力の違いによって実験結果に差が出ることが一般的に知られています.そのため,ROC解析の結果を評価する場合には,これらの観察者間の変動から,実験に参加した観察者群の母集団の平均と分散を推定し,統計的な有意差を求めます.ですから,観察者間で変動があってもおかしくないし,それが自然なのですが,実験に参加した観察者の方々が,自分の結果が全体の結果と比べてどうであったか,と気にすることも,また,自然なことのように思われます.ある観察者の結果が全体の平均よりもかなり良い値であれば問題はないのでしょうが,仮にその観察者の結果が平均よりもすごく下回った場合には,その観察者はその結果を誰にも知られたくない,と思うのではないでしょうか.また,そのような結果が第3者に知られてしまい,一度の観察者実験の結果によって,ある観察者の能力が評価されると仮定した場合,その不合理さは明らかだと思われます.さらにアメリカ国内では,そういった事実が第3者に知られた場合には,その観察者(例えば放射線科医)の就職問題に関わってくる可能性があるのではないか,と心配しています.
また,観察者実験への参加をお願いする場合ですが,年上や立場が上の人には,観察実験を依頼するのに躊躇して,目下の人や気心の知れた人には,気楽に実験の参加をお願いできる,ということを経験したことがないでしょうか? 逆に言えば,目下の立場であれば,上の人から頼まれれば,嫌でも嫌と言えない場合があります.これはハラスメントと考えることも可能であり,仕事という義務を超えた範囲での強要と受け止められる可能性があります.
現在,シカゴ大学でのIRBが要求している観察者の人権保護は;1)実験結果と各観察者の結果の関係を機密事項とし(または記録を抹消し),絶対に個人を同定できないようにすること,2)観察実験への参加を拒否した場合でも,そのことによって拒否した本人が,いやがらせや不当な評価などの不利益を被ることのないようにすること,の2点についてです.NIHが行った勧告をどのように解釈して実施するかは,各施設のIRBの判断に任されているのですが,アメリカ国内でも特に観察者実験を重要視し,観察者実験を含める研究の数が他の施設より多いシカゴ大学では,観察者の人権の保護についての勧告が行われる数年前から,この問題について時間をかけて取り組んできました.観察者の人権を保護する具体的な方法は,前述のようにIRBが指導するわけではなく,各研究者に任せられますので,どういった方法が効果的かを各研究者が考えなければいけません.現在のところ,シカゴ大学のカートロスマン放射線像研究所では,いくつか効果的と考えられる方法をIRBに提示し承認を得ています.RSNAやJMCPなどで展示されたシカゴ大学からのリアルタイムROC実験に参加されたことのある方は,実験の最初にコンピュータ画面に表示される“Informed Consent”を覚えておられるかもしれません.そこには,ROC実験に観察者として参加してもらうための了解事項が記載され,”同意“のボタンをクリックすることで実験を開始するようになっています.これは,カートロスマン放射線像研究所の研究がシカゴ大学のIRBから承認を得た方法の一例です.そして,今後も,さらに高いレベルの観察者の人権保護が要求された場合には,その要求に対して,最適な方法を考える必要があるかもしれません.
なお,論文の謝辞(または共著者として)では,実験に協力してくれた観察者の方々に,お礼を述べることが一般的ですが,この場合は,実験結果の各データと各観察者の関係がわからないので問題はない,というようにシカゴ大学の研究者達は考えていますし,今のところ,IRBから問題の可能性を指摘されたこともありません.
私自身,IRBのことも観察者の人権保護のこともシカゴに来てから知ることになりましたが,知ってみれば至極当然の論理で,できるだけ早い機会に,日本の研究者の皆さんにも,このことに対する認識を深めてもらいたいと思っています.さらに,これまでの経緯から,NIHのこういった勧告は,アメリカ国内の研究であっても,そこに外国の共同研究者が含まれる場合には,その国のIRBに対しても同じポリシーが要求されますので,日本でも対策を講じることが必要になることが予想されます.また,“観察者の人権の保護”を考え,その考えに従って観察者実験を行うことは,観察者として参加していただく先生方にとっても望まれることではないかと考えます.